植芝守央道主に許可を頂き,掲載させて頂いております。
                  (2003.6月1日)

 
  

   
 開祖 植芝盛平        二代道主 植芝吉祥丸       現道主 植芝守央



開祖 植芝盛平の足跡と現道主までの道のり

明治16年(1883) 12月14日 植芝与六の長男として和歌山県の現在の田辺市に生まれる
                     「この子は熊野神社の申し子だ」と、父に言われる。

明治35年(1902)        実業家を志し上京、親戚の商家で働き、
                    しばらくして東京蔵前に「植芝商会」を設立
                    病気を機に店員に託し帰郷
                    この間に近所の戸沢徳三郎の道場に通う(天神真楊流)
                    1〜2ヶ月の武術修行のだったが、生涯、脳裏を離れなかった

明治36年(1903)        大阪第四師団管下第三十七連隊に入団
                    体力に余裕があり、休日は近在の神社、
                    有名道場を尋ねて休日を過ごしました。
                    中井正勝の道場に入門(柔術、剣、杖、槍、
                                         甲冑組打ち術を極める)

明治39年(1906)         この武術修行は、除隊後も続けました。そして

明治41年(1907)        柳生流(後藤派)柔術の免許を上級師範坪井政之輔より
                    中井正勝の手を経て受けている。
                    実家に戻り、悶々と過ごす開祖を見た父与六は自宅に
                    道場を作り講道館柔術の使い手、高木喜代市を招きました。
                    暫くは地元の青年と柔道の稽古と指導にあたりました。

明治45年(1911)        北海道開拓移住民団体結成 
                    中心となって54戸を引きつれ白滝原野増画地に入植
                    開拓の日々に明け暮れる。

大正4年(1915)2月       北海道北見の国遠軽の田舎旅館久田にて、
                    武田惣角(大東流柔術)に出会う

大正5年(1916)3月       大東流柔術の秘伝奥義、目録相伝を授けられる。
                    惣角は武術を修業するなら絶対勝てと教えるが、

                    勝つための殺伐とした闘争技術としての武術修行は、
                    人間として生きる上での疑問を胸中に起こし、
                    術より道の合気道の帳を開くことになっていった。

                    
              現在(2000年)の白滝村、街中から少し離れたところに石碑があります。

大正8年(1919)11月      父危篤、財産を惣角に譲り、白滝を後に
                   帰郷途中の列車で、多くの病人を助けるという奇跡の人
                   出口王任三郎(大本教)の話を聞き,途中京都綾部に下り
                   出会う。

大正9年(1920)        綾部に移り住み,王任三郎は喜んで向かえ,
                  武道で身を立てることを勧める
                  植芝道場が開設,第一歩である

大正11年(1922)       自他一体の境地,いわゆる合気を目指すことにより
                  「合気武術」と呼称した。

大正13年(1924)       出口王任三郎に従って,蒙古入り、死線をくぐりぬけ貴重体験

大正14年(1925)      綾部に帰り,剣道教師の免状を持つ海軍将校と手合わせ
                  相手が打ち込む前に「豆粒くらいの白い光」が飛んでくるのが
                  見え,ことごとくかわしてしまう。
                  その直後,
天と,地から同じように黄金の気が出て,
                  盛平を包み込んだ。体が黄金体と化し,大宇宙に自分自身を
                  移入したと直覚した。開祖は「黄金体化」と表現されている。

  


昭和2年(1927)       合気道の活動拠点を東京に移す

昭和6年(1931)       皇武館道場を建設
                  軍人,華族,実業家などの団体に限られ,一般人への普及は、
                  ほとんど行われませんでした。悪用を恐れてのことで,
                  警視庁の要請も,門前払いでした。

昭和17年(1942)      
「合気道」と呼称する
                  財団法人皇武会本部道場長に植芝吉祥丸が就任
                  開祖は茨城県岩間に,合気神社を建立し,晩年の本拠とする

昭和22年(1947)      財団法人皇武会を改組,再編成「財団法人合気会」と申請

昭和23年(1948)2月    認可される。
                  吉祥丸道場長は広く一般に普及するように努めた。

昭和29年(1954)頃から  本部道場稽古経験者が,郷里や勤務先で道場を開き
                  支部が出きる

昭和30年(1955)頃    説明会や演武会が開催,知名度があがりました。

昭和35年(1960)     財団法人合気会主催の第一回合気道演武大会が開催
                 以後,毎年開催。現在は参加者5千名を数えます。
                 開祖は紫綬褒賞を受ける。

昭和36年(1961)     関東学生合気道連盟結成

昭和43年(1968)     合気道本部道場を鉄筋で新築。合気道学校を併設

昭和44年(1969)4月26日 
開祖入神享年86歳 正五位勲三等瑞宝章を追贈される。
                   吉祥丸道場長が合気道道主を継承する


昭和51年(1976)      国際合気道連盟(IAF)が設立

昭和59年(1984)      国際合気道連盟が,GAISF(国際競技団体連盟)に加盟

昭和61年(1986)      植芝守央道場長代行が,本部道場長に就任
                  吉祥丸道主は,国内外の普及を通じて社会貢献
                  藍綬褒賞を受賞する

平成7年(1995)       吉祥丸道主,勲三等瑞宝章を受章する。

平成8年(1996)       植芝守央道場長は技法指導の中心として国内外を問わず
                  精力的に指導に勤め、財団法人合気会理事長に就任するBR>
平成11年(1999)1月4日  
吉祥丸道主入神(享年77歳)
                  合気道の普及発展に全身全霊を捧げ,日本文化に大きく貢献
                  内閣より正五位賜る。
                  植芝守央理事長,本部道場長が合気道道主を継承
                  国際合気道連盟会長に就任する








参考資料


規範 合気道 基礎編

  著者
    合気道二代道主 植芝吉祥丸
    合気道道主    植芝 守央

    財団法人合気会 出版芸術社    

            
 劇画 合気道開祖 植芝盛平物語

    監修  植芝守央
    作画  山岡 朝
    
     出版芸術社